洋楽と邦楽における決定的な違いとはなんでしょうか。音楽を幅広く聴く人にとっては、自然に思い浮かべることになる洋邦のサウンドの差について、解説していきます。
洋楽と邦楽の音、サウンドの差は、オーディオを記録作品とするか、音響作品とするかの違いによって生まれる。
はじめに
まず初めに言いたいのは、今回考えるのは「サウンド」の差についてであって、クオリティの差についてではありません。どちらとも素晴らしい曲を書く人がいるし、音楽を造る人がいるということ。
どちらが好きかは人それぞれであること、が前提なので!
洋楽と邦楽における決定的な違い
なぜ邦楽のCDは洋楽のCDと比べて音がショボく聴こえるのか?
意外とタブーになってますが、けっこう多くの人が疑問に思っていると思います。なお『ショボイ』という言葉をどう捉えるべきか?ということですが、特にポップミュージックにおける、音圧感や音色などの音、サウンドとしての楽しさ、華やかさ、面白みが足りない、というニュアンスです。曲としての良し悪しとは、別の話になります。
実際問題、曲も良いし、サウンドも面白い、かっこいいというトラックは洋楽の方が明らかに多いです。録音は悪くとも、曲が良い、だから世界で売れた、というようなケースも洋楽には多いのですが。とりあえず、サウンド、つまりミックスにおけるサウンドクリエイトとレコーディングの良し悪しは分けて考えて生きます。
洋邦の音の違いは、自分が中学の頃から洋楽を聴き始めるようになって、率直に思ったことであり、エンジニアリングをなぜ勉強しようと思ったのかということに繋がります。
同じ機材も使っているだろうになぜあんなに違うのか、最近になってようやく分かってきました。その成果が本サイトとも言えます。今にしてみれば、中学生の頃の感覚は決して間違っていなかったですし、おそらく洋楽を好んで聴く方は、かなり意識的に感じていることだと思います。では、なぜあんなにも音が違うのか?
オーディオにおけるサウンドの解釈
まず音ということで言えば、生楽器であろうが電気楽器だろうがオーディオだろうが、聴こえてくる音は振動が空気を伝わって聴こえてくるものであり、物理現象という意味では全部同じことです。
ただしオーディオにおけるサウンドとは、電気信号であり、録音されたものです。そしてそれらは電気的に修正、編集、加工が可能になります。そもそもは生音に近づけるための加工を拡大解釈したらどうなるでしょうか?元々音量を調整するためのものであるコンプレッサーを音が歪んでしまうまで掛けるとしたら。
あるいは音を原音の音質に戻すためのイコライザーのノブをそれ以上にまわしてしまったら・・・。正直、ジャンルによってサウンドは異なりますし、一言ではなかなか説明出来ないのです。
しかし、視覚的なモノに置き換えるなら、そのサウンドの差は、日本人はオーディオを写真のように捉えており、西洋人はグラフィックアートのように捉えている。という意識の差からくるものだと考えられます。
手段か?目的か?オーディオとは?
まず気を付けなければならないのは、方法論としては、どっちが優れているかというのは、単純には決められないということです。あくまで考え方の違いから、違った方法論を採用している、ということになります。
ありのままを写すのか?
まず写真というものは、ありのままの様子を写そうとします。まさに目で見たとおりのものをそのまま記録に残そうとします。しかし、ありのままがいいとは必ずしも言えないこともあります。かつ写真写りが悪いこともあります。
必ずしも人間の印象を反映するとは限らないし、機械の性能的限界があるということです。現在では当然のように写真はデジタル修正、調整されますが、(アナログ時代も修正はあったようですが)基本的にはレンズに映ったものをそのまま記録する、という機械です。
撮る人のセンスというものは確実にあり、記録ではあるんだけども、主観が反映される、ある程度の範囲では手が加えられることがある、というものが写真だと思います。
自分の解釈を加えるか?
日本人にとってはオーディオはあくまで音を録音し、再生するための手段である、という側面が強いのではないでしょうか?そういう意味では写実主義です。
その反面、オーディオをグラフィックアートならぬサウンドアートのためのメディアと考えるのならば、必ずしも写実的である必要はなく、なにより心象世界を反映を優先した音作りができるワケで、そういう視点がサウンドに大きな影響を与えていると思います。
つまりはどんどん加工していく、デフォルメしていくことのできるスタイルです。オーディオだからこそ出来る音響効果を積極的に利用することで、自然ではありえない音体験を創造する!という思考です。
ただし例えばEDMを聴いて育った世代はむしろ加工されまくっていることが普通、という感覚になるのだろうと思います。むしろ、1960年代以降の音を加工する、という路線がもはやアタリマエになったということでしょう。
いかに本来の姿に忠実に記録するか?
いかに受け手にイメージ、世界観を想起させるか?
要するに『オーディオ』という技術への解釈が違う、ということなのだと思います。記録のための技術であるか?手段なのか?あるいは工芸品なのか?それ自体が目的か?その二つの側面の比重が違うのかな?と自分は考えています。
まとめ
個人的な考えで、この二つの方法論を比較するならば、写真というものは、そのモノをその場で見るという感動には、究極的には到達できないように思います。(行くのが困難な場所の写真は確かに壮観で、価値のあるものですし、写真だからこそ良さも理解してますが。)
同じ風景であるならば、画家の積極的な解釈によるデフォルメの効いた風景画が面白いのかなぁと。そのようなデフォルメを過剰演出だと思うか、それとも写真のような絵をつまらないと思ってしまうのか、ということの差だと思います。つまり人ぞれぞれ!ということです。
ただ繰り返しますが、写真はもはやスマフォがあるので誰でもカメラマン!とはいえ、やはり撮る人のセンスの影響が大きいです。うまい人の写真は明らかに良いものなわけですんで。やはり、この二つの方法論のどちらかに優劣が付くという話ではないです。
カメラの取り方をオーディオで例えるなら、マイクの置き方とかですかね。置き方でだいぶ音変わりますからねー。そこで鳴っている音をどう捉えるか?もスタイルの違いとして、また存在するでしょう。
あくまでひとつの捉え方ですが、そのような考え方の違いが、日本人のミックスと欧米人のmixとの間にあるということです。
すこし抽象的な話になってしまいましたが、ここで書いた視点について実践的な面から、具体的で技術的な解説を本サイトでやっていきたいと考えています。